和歌・漢詩のすすめ【Wathematicaアドベントカレンダー】
こんにちは。Wathemathca2年のpicklesmanと申します。
この記事はWathematica Advent Calendarの23日目の記事です。
なぜ和歌・漢詩の記事を書くのか
理工系学術サークルなのに和歌・漢詩とは何ぞ?とお思いの方、鋭いですね!
理工系の学問についてWathematicaのお強い方々を差し置いて語れることがなさそうだったからあまり古典に興味をもって来なかったであろう理系の皆さんにも古典を好きになってほしいからです。
古典文法なんかとっくに忘れ去ってしまったという方々がいるかもしれませんが、私の知識も高校レベルで止まっていますし、そんなに難しい内容にするつもりも(能力も)ないので、ぜひ気楽に読んでほしいです。
和歌とは?
説明してくれなくても分かる(和歌だけに)と思っていますか?でも一応説明しておきます。
和歌というのは5音と7音を基調とする日本古来の詩歌のことで、昔は長さの異なるものもまとめて和歌と呼んでいたそうですが、現在では57577の31音から成る短歌を主に指します。百人一首でおなじみの形式ですね。この記事でも和歌に関しては31音のものしか扱いません。
漢詩とは?
漢詩とか興味わかんし(漢詩だけに)と思っていますか?失礼しました。どうしてもダジャレで揃えたくて...
漢詩っていうのは中国の古い詩のことです。分類が和歌と違ってたくさんあります。具体的にどういった形で分類されているかは説明が長くなりそうなので興味のある方は分かりやすくまとめてくださっているこちらのサイトを参照するといいと思います。中学高校の授業で習うのは五言/七言の絶句や律詩が多いですね。ちなみにこの記事では絶句しか扱わないことに決めています。なぜなら短くて解釈が楽だから...。
もう一つ和歌と異なる点としては押韻がされることですが、これは後ほど作品を見ていく中で触れようかと思っています。
お気に入りの和歌5選
個人的にお気に入りの和歌を集めてみました。文法的な話も少ししています。
①東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ -柿本人麻呂(万葉集)
日本最古の歌集である万葉集ですが、その中でも有名な歌ですから耳にしたことのある方も多いかと思います。作者の柿本人麻呂は長歌も短歌も詠むのがうまかったらしくて歌聖と呼ばれていたりしたそうです。
さてこの歌についてですが、個人的には声に出して読むと楽しいです。カッケー単語が入ってますし、短歌全体の話になってしまいますがそもそも57577のリズムと古語の聞きなれない響きが気持ちいいですね。全然意味が分からなくてもなんとなく口に出すだけで面白いのが和歌のいいところだなあと思います。
初句・二句・三句「東の野に炎の立つ見えて(ひむがしののにかぎろひのたつみえて)」
「東の」の「の」と「炎の」の「の」はともに格助詞ですがはたらきが違います。前者は連体修飾格でかかっている体言「野」を修飾しますが、後者は主格でかかっている用言「立つ」を主語にしています。つまり、「東の野に炎が立つのが見えて」ということです。
字面だけ見ると東の方角で火事かと思ってしまいそうですが違って、炎(かぎろひ)は古語においては明け方の光のことです。三句までの部分では東の空から太陽が昇ろうとしている様子を言い表しています。
四句・結句「かへり見すれば月傾きぬ(かへりみすればつきかたぶきぬ)」
「(かえり見)する」の已然形に接続助詞の「ば」が付いていますから、確定した事象「かへり見する」が「月傾きぬ」に先行していることを表しています。かへり見は皆さんのご想像通り空間的に後ろを振り返って見る意味があります。東の反対ですから西の方角を振り返っていますね。また「傾きぬ」の助動詞「ぬ」は今回は完了していない動作についていますから強意のはたらきをしており、結句は「月が傾いている」となります。
以上から、現代語訳は
「東の方の野に明け方の光が差し始めるのが見えて後ろを振り返って見たところ、西の方では月が傾いている」
となります。
ところで、この歌を含む長歌一首と短歌四首の詞書には「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあります。軽皇子というのは即位前の文武天皇で、このとき父である草壁皇子は既に亡くなっており、一連の流れから軽皇子と人麻呂たちの一行は草壁皇子が来ていた狩場を訪れていることが分かります。すなわち、この歌は天皇の代が変わり、新しい時代が来るということを意識した歌になっています。
そうなると、「かへり見る」「立つ」が気になってきます。まず「かへり見る」の「振り返って見る」という意味に注目すると、ここでは朝・来る軽皇子の時代から、夜・去ってしまった草壁皇子の時代を顧みる規模の異なる二つの時間的な流れをも表していることに気づくことができます。そして「立つ」は単に日の光が差しているというだけでなく、軽皇子の成長を称える意があると考えらえます。
また、「かへり見る」には「気にかける/世話をする」という意味もあり、これを踏まえると軽皇子を十分気にかけてお仕えしなければ世代交代は成立しないという意もあるのかもしれないとも思いましたが、これは正直あまり自信がないので気にしないでください。
このように、一見単に爽やかな朝の訪れを歌っていますが、実際にはダイナミックな視線の移動を使って非常に大きな時間的・空間的情景、国家規模の変化が描写されていることが分かりました。当たり前ですが巨大な才能を感じますね。かっこよすぎて鳥肌が立ってきます。詠まれた場に居合わせたら夏井いつき先生でも100%ちびってるでしょうね。
②八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になずさふ -柿本人麻呂(万葉集)
また万葉集から人麻呂の歌です。
初句「八雲さす(やくもさす)」
雲が立ち上っている様子から、出雲にかかる枕詞です。枕詞というのは一定の語句の上につけて歌の調子を整える言葉ですから、歌を解釈する上では大して意味はないことが多い気がします。
二句・三句「出雲の子らが黒髪は(いづものこらがくろかみは)」
ここで格助詞の「の」「が」は体言「子ら」「黒髪」にかかっていて連体修飾格であることを知っていますから、シンプルに「出雲の子供たちの黒髪は」と訳してしまいそうですが実は結構違います。
第四句に「吉野の川」とでできますがこれは明らかに地名を指しています(やはり吉野川でしょうか)。そうすると吉野は今でいう京都で出雲は島根ですから地理的に結構離れており、出雲というのは地名ではないのではないか、「出雲の子ら」でひとかたまりではないか、と推測できます。
「子ら」というのは子供の複数形として訳されることが多いですが、万葉集に収録される歌が詠まれた奈良時代以前には主に女性単数に対して親しみの気持ちを込めて呼ぶ言葉です。したがって、出雲の子らというのは出雲の女性という意味であり、ここでは作者である柿本人麻呂の実の娘、「出雲娘子(いずものおとめ)」を指します。
四句・結句「吉野の川の沖になずさふ(よしののかわのおきになずさふ)」
「なずさふ」は水にもまれる/漂う・慣れ親しむことを表す動詞ですが、先に述べたように吉野の川とあるので前者でしょう。
以上から、現代語訳は
「雲が立ち上っている出雲娘子(作者の娘)の黒髪が吉野の川の沖に漂っている」
となります。どういうことでしょうか。何だか不気味ですね。
実はこの歌に出てくる出雲娘子は溺死しており(入水であったとも言われている)この句は彼女が吉野で火葬された際に詠まれた二つの句のうちの一つだそうです。(もう片方が気になる方はググってください)ということで、吉野の川の川藻に亡くなった娘の黒髪を重ねて思いをはせている歌であることが分かりました。先ほどあんまり意味がないことが多いと申し上げた枕詞ですが、この歌では火葬の煙の様子を表している気がしてきましたね。
③憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを -源俊頼朝臣(千載集)
千載集は平安末期に作られた勅撰和歌集で、百人一首の撰者である藤原定家の父、藤原俊成が編纂しています。この歌は百人一首にも収録されていますね。百人一首は定家が色々な勅撰和歌集から勝手に百首を選んだ私撰和歌集ですから、いい感じの歌は百人一首にも載ってることが多いです。ちなみになぜこの歌が気に入っているかというと、小学生のときに教えてもらった語呂が「うっかりハゲ」だったからという、ただそれだけです。語呂が好きなだけで正直特に意味を気にしてこなかったので、雑な訳になってしまうかもしれないことを始めにお断りしておきます。
初句・二句・三句「憂かりける人を初瀬の山おろしよ(うかりけるひとをはつせのやまおろしよ)」
「憂かりける」は形容詞「憂し」の連用形に過去を表す助動詞の「けり」の連体形が付いたもので、「憂し」は「思い通りにならない/つれない」という意味がありますから、「憂かりける人」は「つれなかった人」となります。恋のにおいがしてきました。この時点で正直やる気が失せますが我慢して解釈を進めるとなんか初瀬の山おろしに呼びかけています。初瀬がなんだかよく分からないのでググると、初瀬は地名で今の奈良県にあり、観音信仰で有名な長谷寺があるそうです。山おろしは山から吹きおろしてくる風のことでしょう。
四句・結句「はげしかれとは祈らぬものを(はげしかれとはいのらぬものを)」
「はげしかれ」は形容詞「はげし」の命令形で「激しくなれ」という意味です。「祈らぬものを」は「祈る」に打消の助動詞「ず」の連体形と逆接の終助詞「ものを」がついて、「祈らなかったのに」となります。
以上から、「つれなかったあの人を、初瀬の山おろしよ、つれなさが激しくなれとは祈らなかったのに」となりますが、これを訳とするにはまだ足りない気がするのでもう少し見ていきます。
まず初瀬は観音信仰があるらしいので「初瀬」と「祈る」は関連付けることができて(こういうのを縁語と言います)、好きな人が振り向いてくれるように観音様にお願いしたということを表していると考えられます。また、「山おろし」「はげし」も縁語で、つれなさが山おろしの風のように激しくなっているのを表現したいと考えられるので、現代語訳としては
「観音様につれなかったあの人が振り向いてくれるよう祈ったけれど、初瀬の山おろしよ、その風の激しさのようにつれなさが激しくなれとは祈らなかったのに」
となります。先述した二首よりもぐっと技巧的ですね。万葉集は感じたことを素直に読んでいるのが特徴ですが、古今集に始まる数々の勅撰和歌集を見ていくとこういう技巧的な和歌がほとんどかなと思います。
④大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立 -小式部内侍(金葉集)
この歌も百人一首に収録されています。作者は当時から才能ある歌人として知られていた和泉式部の娘です。この一首は和泉式部が丹後にいたときに小式部内侍が都で開かれた歌合(歌の大会)に呼ばれ、中納言定頼に「お母さんに遣わせた使者は戻ってきましたか」とからかわれてとっさに詠んだもので、中納言定頼はあまりに見事な歌に驚き、返歌が思いつかずに逃げてしまったという有名なエピソードがあります。なろう小説みたいで気持ちいいですね。古文の授業で読んだことがあるという人も多いと思います。
初句・二句・三句「大江山いく野の道の遠ければ(おおえやまいくののみちのとほければ)」
まず大江山は都と丹波の境にある山で、和泉式部がいる丹後は丹波のさらに先にあります。「いく野」は「生野(丹波の地名)」と「行く野」を掛けており、「遠ければ」は①の柿本人麻呂の歌でも出てきたように已然形+接続助詞の「ば」ですから、四句以降で述べられている事象に先行する事象です。
四句・結句「まだふみも見ず天橋立(まだふみもみずあまのはしだて)」
「ふみ」は「文」と「踏み」を掛けており、天橋立は皆さんご存じの日本三景の天橋立のことで、和泉式部のいる丹後にあります。
以上から、現代語訳は
「大江山を越えて生野を行く道が遠いので、まだ天橋立を踏んでみたことはなく、(母からの)文も見ていません」
となります。母に頼ってなんかいませんよ、という内容をエレガントに歌で返しています。とっさにこんな歌が出てくるなんて賢すぎて、自分もこのくらい凝った会話ができるようになりたいですね。575指摘したくらいでドヤってるのが恥ずかしくなってきます。
⑤むすぶ手のしづくに濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな -紀貫之(古今集)
古今和歌集から撰者である紀貫之の歌です。古今和歌集は最古の勅撰和歌集で、紀貫之による序詞「やまとうたは人の心を種として~」も有名ですね。なんか熱いことが書いてあったと思うので気になる人はググって確かめてください。
一句・二句・三句「むすぶ手のしづくに濁る山の井の(むすぶてのしづくににごるやまのいの)」
ここで「むすぶ」というのは両手を合わせて水をすくう形にすることで、「しづく」はその手から落ちた水滴のことです。山の井は多分くみ上げ式の井戸というよりは水場のようなもので、浅いので、水をすくって垂れたしずくで濁ってしまうということを言っています。そしてこの一句から三句までが四句の「あか」を引き出すための長い序詞になっています。序詞というのは枕詞の長いバージョンだと思ってもらえばいいです。
四句・結句「あかでも人に別れぬるかな(あかでもひとにわかれぬるかな)」
「あかでも」はまず満足することを意味する動詞「飽く」の未然形に打消の助詞「で」と逆接の助詞「も」が付いており、「満足しないのに」となります。
そして序詞で引き出された「あか」は掛詞になっています。「飽か」と何が掛かっているか分かるでしょうか。...正解は、「閼伽」です!!!知らね~(笑)って感じですよね。分かります。閼伽というのは仏壇に供える水のことで、その水の量は少ししかないですから、三句までで言及した山の井で飲める水の量が少ないことを強調しています。
「別れぬるかな」は「別れ」に完了の助動詞「ぬ」の連体形と詠嘆の終助詞「かな」が付いており、「別れてしまったなあ」となります。
以上から、現代語訳は
「仏壇に供える水が少ないように、両手ですくった水の水滴が落ちただけで濁ってしまう山の水場の水は少なく、満足できない。それと同じように、満足いかないままあなたと別れてしまったなあ」
といったところでしょうか。何だか複雑で大変でしたが、だからこそ解釈できると気持ちいいです。
人と親しくなれないまま別れるのは非常にありがちな事案なので、度々思い出す一首です。しかし私はコミュニケーション能力に問題があるが故に人がたくさん集まっている場で誰とも何も話せずに終わることが多いのに対して、紀貫之は旅の途中に水場で出会った女性と十分に仲良くなれなかったことを悔いて詠んだ歌らしいので、実は状況が全然違います。
お気に入りの漢詩2選
お気に入りの漢詩というか絶句を二つだけ紹介します。漢詩はもともと中国語でリズムがいいようになっているので、書き下して日本語にすると声に出して読んでもそこまで楽しくないのが割と大きな欠点だと思っていますが、その欠点を詩の意味のかっこよさが補っているので、もし興味を持ったら自分に刺さる漢詩を探してLINEのひとことにでもしてもらうと意識高い系の仲間入りができるかもしれません。一応ピンインも併記しているので読める人はぜひ読んでみてください。あと解釈はかなり雑になっていると思います。
①登鸛鵲楼 -王之渙
登 鸛 鵲 楼 (鸛鵲楼に登る)
deng1 guan4 que4 lou2
白 日 依 山 尽 (白日山に依りて尽き)
bai2 ri4 yi1 shan1 jin4
黄 河 入 海 流 (黄河海に入りて流る)
huang2 he2 ru4 hai3 liu2
欲 窮 千 里 目 (千里の目を窮めんと欲し)
yu4 qiong2 qian1 li3 mu4
更 上 一 層 楼 (更に上る一層の楼)
geng4 shang4 yi4 ceng2 lou2
まず鸛鵲楼はカンジャクロウと読んで、高いやぐらみたいなものです。この鸛鵲楼は登ると中条山という山の山並みが見えて黄河が見下ろせる絶景スポットだったらしく、この詩は作者の王之渙が鸛鵲楼に登った際に詠んだものです。
起句・承句
この二句は下記のような関係で対句になっています。
白↔黄(色)、日↔河(景色)、山↔海(地形)、依↔入・尽↔流(動作)
訳はまあそのままです。鸛鵲楼に登って見えた景色について言っています。
「白く輝く太陽が山に寄り添って沈んでいく。黄河は海に向かって流れていく。」
転句・結句
まず押韻を見ることにします。五言絶句では原則として偶数句末で韻を踏むことになっていますが、この詩でも流と楼で韻を踏んでおり、原則通りになっていることがピンインをみると分かりやすいですね。
転句では千里の目をきわめたいと言っていることから、王之渙さんが景色をもっと遠くまでよく見たいと思っているらしいことが分かります。私は目が絶望的に悪いので個人的にはここが一番共感できます。
結句では鸛鵲楼を更に上っています。こういう展望台みたいなのって大体何層かになってるので次の層に登るというところですね。
「遥か彼方まで景色を見渡したいと思い、更にもう一層上へと登る。」
勉強熱心な皆さんにこの詩がぴったりだなーと思って紹介させていただきました。クサいことを言うと後で恥ずかしくなるので説明は控えますが...
②望廬山瀑布 -李白
望 廬 山 瀑 布 (廬山の瀑布を望む)
wang3 lu4 shan1 pu4 bu4
日 照 香 炉 生 紫 煙 (日は香炉を照らして紫煙を生ず)
ri4 zhao4 xiang1 lu2 sheng1 zi3 yan1
遥 看 瀑 布 掛 前 川 (遥かに看る瀑布の前川に掛くるを)
yao2 kan4 pu4 bu4 gua4 qian2 chuan1
飛 流 直 下 三 千 尺 (飛流直下 三千尺)
fei1 liu2 zhi2 xia4 san1 qian1 chi3
疑 是 銀 河 落 九 天 (疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと)
yi2 shi4 yin2 he2 luo4 jiu3 tian1
李白の七言絶句です。李白は「静夜思」「黄鶴楼送孟浩然之広陵」がよく教科書に載っている印象ですが、この詩は聞いたことがない人もいるのではないでしょうか。現在では世界自然遺産に登録されている廬山の風景を描写しており、個人的に一番好きな漢詩です。
起句・承句
起句にある「香炉」は廬山の峰である香炉峰のことです。白居易の白氏文集にある「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一節は有名で、枕草子の中でも雪の日に中宮定子に「香炉峰の雪はどんなだろう」と聞かれたので清少納言が簾を巻き上げた、という機転アピールのエピソードがあります。古文で読んだことがある人も多いのではないでしょうか。
「太陽の光は香炉峰を照らして山に紫煙が立ち込めている。遥か遠くには滝が前方の川に掛かって流れ落ちているのが見える。」
転句・結句
まず押韻ですが、七言絶句では原則として偶数句末と第一句の句末で韻を踏みます。ピンインを見ると煙と川と天で踏んでいます。
転句の「飛流」は滝が飛ぶように早く流れているということで、それが三千尺も下まで落ちているそうです。一尺を知らないので三千尺がどれくらいなのか知りませんがこういう時は数字に意味はなくて、ただめっちゃ大きいということを表したいだけですね。結句の「九天」は天の最も高いところという意味ですから、訳は以下のようになります。
「飛ぶように早い滝の流れが真っ直ぐ下に三千尺も落ちている。銀河の最も高いところから落ちてきたのかと疑うほどだ。」
ものすごい風景なんだろうな、見てみたいなと思わせる壮大かつ幻想的な描写ですね。香炉峰に濃く霧がかかって、その合間から遠くに滝が見えているけど、霧があるからどこから流れ落ちているかわからない。まさに水墨画の世界という感じですが、それを滝が銀河から落ちてきていると喩えるメルヘンチックな発想力がすごいです。実際の風景も想像しやすいし、ペガサスとかが出てきそうな雰囲気もあって魅力的です。
まとめ
和歌・漢詩の紹介は以上です。想定以上にクッソ長くなってしまい、ここまで飛ばさずに読んだ方は果たしていらっしゃるかという疑念が深まっております。
書いていて思ったこととしては、まずは本当にWathematicaの名前で書くような記事ではなかったですね。普通に自分のブログで書けよって感じです。どうもすみません。実は情報数学の課題レポートのために復習がてら何か書こうかと考えていた時期もあったのですが、全てを先延ばしまくる性質のためにレポート自体に取り掛かるのがかなり期限ギリギリになってしまい普通に諦めました。情けないですね。それから自分の詩歌の好みの傾向が分かりました。ちまちまと技巧的なよりは率直な方が好きです。でもそういうのばかり選んでしまうとあまり書くことがなくなってしまうので技巧的なものも入れました。
という感じで、Wathematicaには私みたいな文学的なことに関心がある…というか元々あまり理工系の素養のない人間もいるので(私だけの可能性も大いにありますが)、数学や物理に興味はあるけどそこまで得意じゃないので入るのを迷っているという方も是非入ってほしいなと思っております。
おまけ
もはや完全に趣味の記事になってしまったので、ついでにいろいろなおすすめを紹介させてください。
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